ブログふう P1
2014年10月5日(日) 曇時々雨、のち雨
しばらく前のことになりますが、池田康(いけだやすし)氏が発行なさっている、詩の一枚誌『
虚の
筏』第9号に拙作「かぎかっこ(三)」を載せていただきました。
拙作はさておき、二条千河「Universe」、小島きみ子「黄色いダリアが咲いていて」、米山浩平「白雪姫の世紀」、たなかあきみつ(リンゴがもっぱらvampiresの歯牙と……)、森山恵「耐えきれぬ藁」、平井達也「47と35」、池田康〈機械〉、と各氏の読みごたえのある作品が掲載されています。
次に、PDFデータを置きます。お読みいただければ、と思います。
なお、拙作については、このたび、下のもののとおり、大きく修正いたします(2014年11月15日→2019年2月23日再修正)。
2014年10月13日(月) 体育の日 曇のち雨
台風が近づいています。被害が出ず、通り過ぎてくれることを願うばかりです。
さて、「山形新聞」紙上での「やまがた 名詩散歩」の企画が続いています。原則として週の火曜日に掲載。本日現在で、14回掲載されています。すばらしい企画と思います。毎回、興味深く、読んでいます。
9月17日(火)掲載の13回目、近江正人氏による、〈永山一郎(ながやまいちろう)、金山町生まれ、1934~1964、享年29歳〉とその詩「樹木について」の紹介、9月30日(火)掲載の14回目、伊藤啓子氏による〈土谷麓(つちやふもと)、山形市生まれ、1914~1962、享年48歳〉とその詩「一升買ひ」の紹介は、これまでこの企画の中で紹介されてきた詩人と詩の中でも、私にとっては、特に、読みごたえがあり、印象深いものでした。詩も、紹介の文章も。
また、10月12日(日)に掲載された、岩井哲氏による〈鈴木健太郎(すずきけんたろう)、現上山市生まれ、1909~1964年、享年55歳〉とその詩「秋日」「十一月午后」の紹介も、同様です。こちらは、「やまがた再発見」企画の223回目。今回が「上」であり、「下」が楽しみです。
土谷麓と鈴木健太郎は、恥ずかしながら、私にとっては未知の詩人でした。今回知って、「こんなにすばらしい詩人が山形にいたのだ」と驚き、深い感慨を覚えました。
このHPを訪ねてくださる方が全員「山形新聞」の購読者、ということではないでしょうから、新聞に掲載された三人の詩を、ぜひここで全文紹介したいという気持ちになりますが、それは“御法度”と考えるべきでしょうか。多くの詩の中から、これだけ魅力ある詩を紹介してくださった三人の紹介者に失礼にあたると思われます。
とはいえ、やはり、少しだけ紹介させてください。
永山の詩は、格調高く、読む者もつい背筋を伸ばして凜とするような調べをもつ。紹介されている詩「樹木について」は、四つの連から成る。その第三連と第四連を紹介しておきたい。季節は「秋」。「陽光が/ささやきのように流れる/林の中に/君はじっと佇立したまえ/幹々に/決して硬くはない樹皮の内がわで/徐々に/充実していく/ひとつの正確な気配が/君をつつむことだろう//そして/君の中の/夏の烈しさに背を屈めてしまった/小さな獣が/ゆっくり/そのしなやかな毛並を/動かしはじめるのを/君は/はっきりと/愛のように/はっきりと確かめることであろう」。
土谷の詩は、その“語り口”自体がせつなく、悲しい。四つの連からなるその詩「一升買ひ」の、第一連と第四連を紹介しておきたい。旧仮名遣いで表記されている。「裏街 あなたの家の前を通つたら/戸があいていたので……/あなたは腹ばひになつて本を読んでいた/声をかけたかつたが……悲しかつた/私は他に用事があつた」「あなたのお母さんは貧しいんだから話はできるのに/一升買ひするあなたのお母さんは気まり悪がつている/よく見ればあなたのお母さんは若い柄のモンペをはいていた/モンペもないんだろう/私は思ひました/あなたはまだ腹ばひになつて本を読んでいるか/私は想像しながら路を歩いています/路は遠い 空迄つゞいています/そして今は 夜です」
鈴木の詩は、私に「永遠」を強く感じさせる。過ぎ去っていく時間。その時間の一コマを、切り取って貼り付けたような、あるいは、鈴木がその詩の中にまだ生きていて、立ってその情景を見ているような、そんな感じを覚える。岩井氏が二篇の詩を紹介しているが、そのうちの一篇、詩「十一月午后」を全文紹介させていただきたい。短詩ということもあり、全文でないとその詩の魅力が伝わらないと考える。また、縦書きでないとその詩の魅力がどこまで伝わるか不安なので、縦書きで紹介したい。
三人の詩人について、その詩集を読んでみたくなった。
それにしても、三人とも享年が若い。夭折の詩人である。そう思って読むからだろうか。「命」の輝き(永山)やせつなさ(土谷)、存在感(鈴木)を、強く感じる。
2014年10月19日(土) 晴、のち曇時々雨
「詩人 蒲生直英 遺墨展」に行きました。故蒲生直英氏は、大正9年(1920年)に現在の山形県長井市川原沢に生まれ、平成22年(2010年)に故人となられました。享年91歳。長く「山形新聞」紙上の「やましん詩壇」の選者をお務めになり、拙詩も幾つか取り上げていただき、掲載されました。今年4月に出版した拙詩集『帽子の時間』にも、「やましん詩壇」を初出とする詩が2篇(「アメシスト」、「馬」)あります。
今回の「遺墨展」は、魅力的な書の書き手でもいらっしゃった直英氏がご自身の詩(やことば)をお書きになった書を、「わが生きる日々」「春秋有情」「滅びゆく村」「ふるさとの町」の四つのテーマに分けて、展示しています。
展示の場所も魅力です。県指定文化財となっている「丸大扇屋」。
300年前から代々呉服商を営んできた商家であり、その建物は幕末から明治、大正にかけての、商家の暮らしぶりを残す貴重なものであるとのこと。彫刻家の故長沼孝三氏(1908~1993)の生家でもあり、敷地内には「長沼孝三彫塑館」が併設されています(「文教の杜ながい」ホームページより)。
「丸大扇屋」正面 お
店のようす
展示されているものの中で、私にとってとりわけ魅力的・印象的であったものを、まず紹介させていただきたく思います。
それぞれ、直英氏の詩の魅力を端的に表していると思います。「生命力」と「感受性(抒情性)」と「ヒューマニズム」。たいへんおおざっぱな捉え方ですが、そのように言えば言えるでしょうか。書については、私は云々する目を持ち合わせておりませんが、直英氏のお人柄が表れ、また、ことばに込めた思いを表現しているように、思いました。
なお、「山まなかいに…」は軸装、「かがよい…」と「幸せに…」は色紙です。直英氏は、ご自身で軸装もなさったようですが、写真では装幀の魅力まではとても伝えることができないと考え、「ことばと書の魅力」に焦点を絞ろうと思い、このような示し方をいたしました。また、写真画像のホワイトバランス等を調整したために、原書の魅力を損なっている点があることをおことわりしておきます。
直英氏の詩集の展示もありました。1941年に出版された小詩集『生きる日の秋』と、1953年に出版された第一詩集『連鎖の山』に、心をひかれました。目にするのは、どちらも初めてです。
展示室となっているのは、「内蔵」と「新蔵一階」、「新蔵二階」。いずれも、蔵の中です。
新蔵二階のテーマは、「滅びゆく村」と「ふるさとの町」。「滅びる集落」と「廃村の谷間」、二つの大書が、強い印象を残します。
展示は、10月30日(木)までです。
さて、「丸大扇屋」の建物も、興味深いものでした。
上の写真、向かって左が風呂場。広くて、立派です。たいへんおもしろく思ったのが、向かって右の「入れかわど」。小川の水を家の中に引いて流しに使っていたのだそうです。しかも、この水場には、鯉がいて、鯉が水をきれいにし、鯉が大きくなると食料にしたとのこと。「江戸時代」と説明書きにありましたが、名高い江戸時代の「循環型エコシステム」の一つと思いました。
向かって左は、丸大扇屋の裏。アサガオが、きれいに咲いていました。ここを通って、「長沼孝三彫塑館」に向かいます。
右は、長沼孝三の作品「つり」。「長沼孝三彫塑館」の前にあります。見ていると、「懐かしい時間」にふける思いがします。
案内の方が、とても親切に説明してくださいました。また、当日は、語り部のおばあさんがいらっしゃって、来る人ごとに、民話を語っていらっしゃいました。「伝えたい文化」を体験・実感できる空間をつくろうという、多くの方の熱意が感じられました。
広い駐車場があるのですが、場所がちょっとわかりづらいので、行かれる前に、「文教の杜ながい」のホームページで確認なさるのがよいと思います。
2014年11月15日(土) 曇時々雨
11月11日(火)のことですが、山形新聞の「やましん詩壇」(芝春也氏選)で、とてもよい詩を読むことができました。
山形県長井市在住の竹田和恵さんの詩「焚き火」です。
とてもよい詩なので、全文を紹介させていただきたく思います。
作者の竹田和恵さんは、『眠りについた羊』等の絵本を作られた絵本作家であり、山形鉄道フラワー長井線の長井駅内ギャラリー駐車場で粘土細工展を開かれるなどの活動をなさっている、その竹田和恵さんだと思います(もし違っていたらすみません)。
ことばから伝わる感じをとらえる感覚の敏感さ、隙のない練り上げられたことばの使い方、童話風な展開のみごとさ、そうした点で、この詩のレベルは、練達の詩人のレベルにあると言ってよいと思います。「この詩の作者はただ者ではない」と、一読して思いました。
「人生という重い荷物をおろしたら/こんなぬくもりがあったのだ」とあります。「人生という重い荷物をおろ」すことができる時間は、決して仕事から退いたあとにのみあるのではなく、若いときにも、必ずそういう時間があるものでしょう。
「大きな仕事を成し遂げる」ことに人生の意義を見出すことも、もちろん、できます。しかし、一方で、この詩に表現されているような時間をすごすことに生きることの意味(「醍醐味」と言ってもよいと思います)を見出すことができなければ、“立派な人生”を送ることはできても、“豊かな人生”を送ることはできないのではないでしょうか。この詩は、そういうことに気づかせてくれる詩です。その「醍醐味」を、読む者に“実感させてくれる”ことによって。
五感のすべてにうったえかける表現(「パチパチと小枝がはぜる音がして」→聴覚、「火の粉が舞い上がります」→視覚、「落葉のいい匂いもします」→嗅覚、「顔がぽぉーっと熱くなったので」→触覚、「さつま芋」のおいしさを想像させる→味覚)で、この詩は、「醍醐味」を実感させてくれます。擬音語・擬態語の効果的な使い方もあって。
「体を支えるまでにはならない枝で」の一行は、作者の非凡の証明と言ってもよいような、みごとな一行だと思います。
「秘密をさぐる そしてプスッと刺す/真っ二つに割る」という、短い文を重ねた、リズムの転換。そして、「黄色い満月のようなさつも芋」の、鮮やかなイメージ。
「おじいさんの秘密はおばあさんと半分こ」(もしかしたら「半分こ」で一行かもしれませんが、これで一行と判断しました)の含蓄の深さ(「おじいさんには秘密がありました」に始まる、「秘密」をめぐる展開の、みごとな結末になっています)、味わいの豊かさ。
「ああ 気持ちいいなぁ」「もうそろそろいいかな」「うん うまく焼けてホッとした」の、直接話法的な心中語の挿入も、実に効果的です。
「日本語の新しい使い方」のような前衛的な表現はないものの、実は、多くの創意に満ちた詩であって、みごとな「絵のない絵本」を作ることに成功している、そういう詩だと私は思います。