久野雅幸のページ
                
詩を書くということ


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五月(緑、谷川俊太郎のことなど)

  五月は、緑が萌え、成長する時節です。トップページに載せた「みどりのために」は、新緑の美しさがモチーフの一つになっています。
 そして、次に載せる「五月に」という詩は、急激に繁茂し、放っておけば地上を埋め尽くすかと思われる、緑の「勢い」がモチーフの一つになっています。
 とはいえ、どちらの詩も、テーマは、モチーフと別ですが。


    五月に


  蝶々が一匹
  緑をへりどり
  飛んでいった

  いかにも
  不慣れな飛び方なのは
  まだ羽化したばかりの蝶々なのだろうか     
  
  あれは
  まだためらっているように見える
  緑を離れて
  果てない世界の広がりの中に
  飛び込んでいくことを

  私たちばかりではないのだ
  ためらいながら
  広がる世界の
  惑乱の中に
  飛び込んでいこうとしているものは
  なにも

  湧きたって緑の押し寄せる
  この季節には
  世界は
  おしなべて緑のみぎわとなる
  強い風が吹くと
  波が立って
  もう少しで
  私たちのもとにも届きそうになる
  押し寄せる
  緑の波の
  はしが






  気をつけなくてはいけないよ
  ときには
  波にさらわれてしまうことだって
  あるのだから
  気がつくと
  深い森の中にあって
  帰り道をたどることが
  簡単にはできなくなってしまっている
  というようなことが
  
  飛んでいかなければならない
  交錯する
  光と影を横切って
  見えない 先の広がりへ
  価値をさぐり
  姿勢をたもって

  すでに
  みぎわに打ち上げられてしまったものたちだ   
  蝶々も
  また
  私たちも

               (久野雅幸)

        


 
 

  さて 、一方、五月は、「五月病」の時期でもあります。
  私自身のことを振り返ってみると、大学に入学してしばらくの時間がたち、勉強の仕方も高校時代と同じようなやり方はできなくなり、生活の仕方をどうすればよいのか、わからなくなったような時期がありました。そんな時期に、私を支えてくれたのは、谷川俊太郎氏の詩でした。
 谷川氏の詩には、言ってみれば、「生きるということの原点に、人を連れ戻し、立たせる力」があります。例えば、次の詩。

   わたくしは
 
    
 わたくしの生命は
 一冊のノート
 価格不定の一冊のノート
 (無機物からの連続と
 宇宙大の空白と)

 わたくしの勉強は
 ノートへのかきこみ
 美しく熱心なノートへのかきこみ
 (充たされぬ整理癖と
 くずれがちな筆跡と)

 わたくしのおしゃれは
 ノートの装幀
 趣味よく明るいノートの装幀
 (稚い不器用と
 よごれがちな絵具の色と)

 えへん わたくしはあるいている
 ノートをかかえ 二十世紀の原始時代を
 とことこ てくてく あるいている
 はにかみながら あるいている                       
 
   (谷川俊太郎『二十億光年の孤独』から)
    

 生きているうちにいつのまにか捕らわれてしまう、自分や人間、社会等に対するマイナスの感情や観念を払拭し、生きることに対して前向きな姿勢に戻してくれる力が、谷川氏の詩には、あります。反発するにせよ、受容するにせよ、捕らわれてしまいがちな世間的な価値観、あるいは、メディアや人間関係によっていわば強引に押しつけられる流行の価値観や概念、そういったものを、いったん除去して、自分でものごとの価値や問題点を判断できるところまで戻らせてくれる、そういう力があります。
 「えへん わたくしはあるいている 二十世紀の原始時代を」と心の中でつぶやきながら、私は、町中の人混みやキャンパスの中を歩いていました。
 大きな、人の多い町で、一人暮らしの学生生活を始めた自分が、主体性を失わないでいるためには、私には、谷川氏の言葉が必要でした。
 『六十二のソネット』の詩をはじめとする谷川氏の詩は、大学を卒業するまで、私にとって、いわばバイブルの言葉のような役割をするものでした。
 二つの詩を紹介しておきたいと思います。


  1 木蔭
     
 とまれ喜びが今日に住む
 若い陽の心のままに
 食卓や銃や
 神さえも知らぬ間に

 木蔭が人の心を帰らせる
 今日を抱くつつましさで
 ただここへ
 人の佇むところへ

 空を読み
 雲を歌い
 祈るばかりに喜びを呟く時

 私の忘れ
 私の限りなく憶えているものを
 陽もみつめ 樹もみつめる                       
 
   (谷川俊太郎『六十二のソネット』から)


   




  4 今日
     
 ふたたび日曜日が そうして
 ふたたび月曜日が
 ふたたび曇り ふたたび晴れ
 してその先に何がある?

 その先など知りはしない
 あるのはただ今日ばかり
 僕の中にふたたびではなく
 今日だけがある

 思い出は今日であった
 死は今日であるだろうそして
 生きることそれが烈しく今日である

 今日を愛すること
 一つの短かい歌が死に
 今日が小さな喪に捧げられるまで

                        
 
          ( 同 前 )


   


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