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八月の詩

  八月には、海へ、山へと出かけます。 
  トップページの写真2枚は、どちらも、山形県の蔵王で撮ったものです。標高1000mを超える高地で、夏には、涼しい中、高山植物を見るなどしながら散策することができます。
 向かって左側の写真は、アザミの花にセセリチョウがとまっています。蛾(が)の一種かなと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、蛾ではなく、蝶です。向かって右の写真は、フジバカマの花(と思います)にアサギマダラという蝶がとまっています。アサギマダラは、たいへんな長距離を移動することで有名な蝶です。山形県の平地では、まず見かけませんが、夏の蔵王ではよく見かけます。


   高原便り


 小さな光の
 またたきに似て咲く花もあれば
 大きな光の
 かがやきに似て咲く花もあって

 思い出してください
 花々の形を
 それらはみな
 きっと
 放たれてかがやく光の形―
 あざみの花も
 マーガレットも
 それぞれに
 放たれてかがやく光の形に
 咲いています

 光にならって
 虫たちを集めているうちに
 形さえも光に似せて
 花々は
 虫たちを
 集めようとしているのでしょうか

 気が付けば
 どの花もみな光の隠喩―

 偶然でしょうか
 タンポポの花が
 春の日のあかるい太陽のかがやきに似ているのは   
 




 
 ひまわりの花が
 夏の日のはげしい太陽のかがやきに似ているのは  
 コスモスの花が
 秋の日のやさしい太陽のかがやきに似ているのは
 そうして

 高原のあわい光の中に咲く花たちは
 高原のあわい光によく似ています
 だから
 高原に咲く花々を描いたスケッチを
 あなたのもとに送ります
 決して上手ではないけれども
 この高原の
 あわい光とすずしい風が
 どうか
 あなたのもとにも届きますように

       (久野雅幸、『旋回』所収、一部改)

  八月は、途中から、さみしさがともないます。
  夏が秋に向かうさみしさと、夏休みが(あるいは、お盆の休みが)終わってしまうさみしさが重なります。
  お盆が過ぎるころには、さみしさを感じる人が多いのではないでしょうか。




  うなだれる

 子どもが言った
 ―ねえ、おとうさん、見て。あの花、がっかりしているよ。  
 見ると
 大人の背たけほどの高さに伸びた
 茎の先に
 今はもう花びらのない大輪を
 重たげに垂らして立っている―
 それは
 一本のひまわりの花

 夏休みも終わりに近い
 ある日のこと

           (『三人の日に』所収、平塚志信)


  

  次の詩も、季節は夏…かな?


   つかまる

 ヒメジョオンの茎から飛び立った
 一匹のテントウムシが
 野原から飛び出していくかと見えて            
 結局は
 野原の端にある
 一本のヨモギの茎につかまった
 つかまって―
 つかまったのだ

 という
 たとえば
 そのようにして
 ぼくたちは
 たやすく
 観念につかまってしまう

 国家とか
 名誉とか

 個人とか
 尊厳とか

 自由とか
 平等とか

 愛とか
 友情とか

 



 孤独とか
 破滅とか

 あなたはどんな観念につかまっていますか
 ぼくはどんな観念につかまっているんだろう

 人にとって最初の観念は
 何だったのだろう
 最初に観念につかまった人は
 少なくとも一時期においては
 そのことで
 偉大なリーダーであったのだろうか 
 あるいは
 変わり者とされただろうか

 もしも
 現在において
 すべての観念から抜け出すことのできる人がいたと   
 したならば
 その人はいったい
 どんな人間なのだろう

 (もちろん、本能や反射にとどまるということではなくて) 

 ぼんやりと空を見あげている
 それから―
 何をどうするだろう 
                     (久野雅幸)


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