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詩を書くということ


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十二月の詩

  十二月は、私にとって、光の時節です。
  クリスマスのイルミネーションのことを言っているのではなく、外にいると、光が意識される時節であるということです。
  光が目に付く時節であり、そして、生きものにとって光がいっそう貴重なものとなる時節である、そのような意味です。
 

   光

 

  光に照らされているものよりも
  このごろは
  むしろ光そのもののすがたが
  見えるようになった

  いつの季節にも
  明け方や
  暮れ方には
  それがそうであるように

  いまは一本の光の筋となって流れてゆく川       
  光の中になかば透かされて立つ葦の茂み

  照らす光のかげで
  照らされているもののすがたは
  むしろ見えにくい

  冬になると
  日差しは
  なるほどあちらこちらに
  たしかに水たまりのように
  ―たまる
  のだ

  こうであれば
  それでよいのではないか
  過ぎ去ってゆく
  私たちの一日も―
  過ぎてしまえば
  一々の出来事の輪郭は




  もうあとには残らないにしても
  ある明るみと温みとが残れば
  それでよい

  いまは巨大な日だまりとなった
  グラウンドの中を
  子どもが走り回っている
  私があやまって蹴ったボールを
  妻が向こうから蹴りもどす

  かなしむな
  夕焼けが空を染め始めるよりも
  ずいぶんと前に
  家々の壁を照らした光の中には
  すでに燃え上がるとする
  あかい
  夕焼けのきざしが
  あっても
 


          (『三人の日に』所収、平塚志信)  
 
    ※ 「温み」に「ぬく(み)」とルビ。「―」(ダッシュ)は、すべて、本当は二字分の長さです。
 
 

   冬の日に

 

  隣家の土蔵の前にある
  ひとかたまりの黒い物体―                  
  地にはり付いた
  それが
  朽ちたアザミであることは
  そこで
  夏に
  紫色の花を咲かせていた
  アザミのすがたを
  目にした者でなければ           
  わからないだろう

  作物のなくなった畑にある
  ひとかたまりの黒い物体―
  地にころがった
  それが
  朽ちたキクであることは
  そこで
  秋に
  白い花を咲かせていた
  キクのすがたを
  目にした者でなければ
  わからないだろう
  
  ああ
  今日のように
  晴れ上がった冬の日には
  それがよくわかる

  命の営みを終えたあとには




  みな
  それまでおのれが占めていた
  空間を
  光のもとに返すのだ

  いま残るわずかな黒い物体も
  やがて
  すっかり
  なくなってしまう

  (なるほど、亡くなるとは無くなるということなのだ、と思う)
  
  この世界で私が占める
  七十リットルほどの容積を
  私が光に返さなければならなくなったときも
  今日のように
  晴れ上がった冬の日がいい
  そうすれば
  私の魂は
  きっと
  空のうつくしさにあこがれて
  自然と天にのぼるように思うのだ                


                        (久野雅幸) 


 

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