久野雅幸のページ
                
詩を書くということ


トップページプロフィール書いた詩など読んだ詩など詩のことなど 掲示板

九月の詩

  秋には、空が高く澄みわたります。そのことを、ひときわ強く感じたのは、仙台市に住んでいるときでした。
  仙台市の秋の空と比較すると、私の故郷、天童市では、四方を山に囲まれた盆地ということもあってか、秋の空にも、通常は、いくらか湿潤さが残っているように思われます。とはいえ、宮城県での暮らしを終えて、すでに27年め。正直言って、仙台市の秋の青空の記憶は、相当にぼんやりしたものになってしまいました。
 次の詩「九月ともなれば」のモチーフとなったのは、明るく澄んだ仙台市の空とその空に浮かぶ雲のようすです。


   九月ともなれば


 九月ともなれば
 歩いているのは私たちばかりではない
 
 空にもまたまっすぐに続く
 一本の雲の道があって
 その道の上を歩いて行く
 旅人たちの姿が見える

 そこは一本のにぎやかな広い街道だ
 たくさんの人々が道の上を行き来している
 大きな荷物を背に負って
 黙々と先を急いでいるもの
 しきりにあたりに目を向けながら
 時には後ろを振り返りつつ
 ずいぶんと気ままな足取りで過ぎて行くもの  
 立ちながら
 顔なじみらしい相手とともに
 たぶん過ぎてきた町々のことなどを
 語り合っているものたち
 座りながら
 お互いに運んできたらしい
 陶器だの織物だのを見せ合い
 さかんに話し合っているものたち

 顔を上げてじっと
 彼ら



 空を行く旅人たちの姿を見つめていると
 私たちには意味不明のことばで語り合う
 彼らの話し声さえ
 耳に届いて聞こえてきそうだ

 うらやましいのは
 どの顔にもみな
 透明で明るい
 あれはやっぱり
 天のものなる―
 表情が見えていることだ

 そうして
 これはおそらく
 彼ら自身は気がつかないことなのだが
 彼ら
 空の街道を行くものたちは
 思い思いの目的地に向かって
 それぞれに歩を進めながら
 結局はみな
 雲を吹きおくる風にのって
 ひとつの方向へゆっくりと流されてゆく     
  
 九月ともなれば
 歩いているのは私たちばかりではない
 私たちの見上げるところを




 ごらん
 ああして
 過ぎて行くものたちがある           

                (久野雅幸)

   宮城県を離れたあと、山形県に戻ってからモチーフを得て書いた詩も、もちろんあります。次の詩も、そうした詩の中の一つで す。
 

   木の形・雲の形


 湧き起こる形の木々の向こうに
 湧き起こる形の雲があった

 夏―
 ぼくは見ていた
 たちのぼる
 さかんな気流の勢いのままに
 雲の形と木々の形の間には
 きっと通いあう
 一つの勢いがある
 と思われて

 そして
 視野の向こうに
 湧き起こる形の雲が崩れて
 しだいに
 雲が空に筋を引き始めるころには
 ぼくはまた見ていた
 木々もまた同じように形を崩して
 あらたに伸ばしたいくつもの枝を     
 吹く
 風の中になびかせ始める
 のを

 


 
 
 雲の形と木々の形の間には
 きっと
 通いあう
 季節による相関関係があるのだ―     
 と思う

 秋―
 たなびく形の木々の向こうに
 たなびく形の雲があった

 たなびく形の心を抱えて
 ぼくは
 心を
 なびかせる空を探している
 
  (久野雅幸、『旋回』所収、一部改)
 

Copyright©2013 Masayuki Kuno All Rights Reserved.