旧トップページ・2015年5月〈2015年5月6日~6月7日〉



  


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   クロッカスの人


  クロッカスの人が
  町に姿をあらわすのは
  いつも
  突然である

  クロッカスの人が
  あらわれると
  町の人たちは
  季節のおとずれを知る
  明るく暖かな季節がようやくここに               
  おとずれたと

       *

  姿をあらわすと
  姿をあらわした その時から
  クロッカスの人は
  たちまち
  町になじんでしまう

  クロッカスの人の出現に
  とまどったり
  クロッカスの人との付き合いに
  苦労したりする
  人のことを
  聞かない





  クッロカスの人を見て
  しぜんと笑みを浮かべる人は
  数多くいるが
  嫌な顔をしたり
  困った顔をしたりする
  人のことは
  聞かない

  人付き合いの得意でないわたしが
  そのことがとてもうらやましいと伝えると         
  クロッカスの人はわたしに言った
  ―風景と同じです
  何らかの感情がこもっているとは感じられない
  たとえば
  カバンを左手に持っている人が
  「わたしはカバンを左手に持っています」と
  前後の脈絡によらず
  事実を事実として単に口にするような
  そんな
  じつにたんたんとした
  ことばの響きが心に残った

     *

  クロッカスの人で
  背の高い人を見かけることがない
  そのことについて




  クロッカスの人に事実を確認すると
  クロッカスの人はわたしに言った
  ―目立っていることができているのならば
   背の高さなどむしろないほうがよいのです           
  なるほど
  クロッカスの人は
  たしかによく目立っている
  周囲にまぎれることのない
  どこか日の光の強い地方を思わせる
  身にまとった
  衣装のいろどりによって

     *

  いっそう暖かくなると
  (どうやらそのせいではないらしいのだが)
  クロッカスの人は
  いろどりのある衣装を脱ぎ捨てる
  すると
  クロッカスの人の姿が
  突然
  目立たなくなる
  そうして
  町の人が ふだん
  クロッカスの人のことを意識することは
  なくなってしまう
  クロッカスの人がまわりにいるということは




  それまでと変わりがないのに
  それがクロッカスの人であるという認識が
  町の人によって行われなくなってしまうのだ
  ―このことは あなたがたが
   ついに風景になったということなのでしょうか
   それとも
   風景でさえなくなったということなのでしょうか        
  たずねてみたいと思うのだが
  わかっている
  こうなると
  クロッカスの人は
  もはや
  口をきくこともしなくなってしまうということ

     *

  クロッカスの人の姿が
  町の中からすっかり消えてしまった時
  町の人で
  そのことに気が付く人は
  ほとんどいない


                        (久野雅幸)
      
  
  


〔ページトップの写真〕
5月4日、月山山麓の春を訪ねました。向かって左は、残雪の中に若葉の時期を迎えたようす、向かって右は春の訪れを告げるタムシバの花です。山形県西川町の志津地区で撮影。