旧トップページ・2015年9月〈2015年8月31日~9月23日〉



  



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  八月のはて


  過ぎていったのは何なのだろう         
  空に
  あんなふうに
  雲を残して

  ポプラの梢を揺らして吹く風に
  けれども
  流されているとは見えずに
  ずうっと空に浮かんでいる
  あの
  光る雲たち

  わかったよ
  それがどんな内容のものだったのか
  ぼくにはとても
  読みとることができないけれども
  それが
  かならず
  語られることなく過ぎていった
  物語であること





  大きなクジラと
  小さなクジラと
  二頭のクジラが寄り添うように         
  二つの雲が浮かんでいます

  大きな大きな
  魚の鱗が
  竜になって
  空に上っていきました

  いくつもの物語が
  八月終わりの空で
  その結末を
  交錯させる

  グラウンドの片隅で
  ずっと
  空を見ていた
  子ども





  立ち去るとき
  空に向かい
  何度も
  大きく
  手を振った

 ※第5連
  …「魚の鱗」は、「魚」に「さかな」、「鱗」に「うろこ」
   とルビ。

                  (久野雅幸) 
                          

  
 


〔ページトップの写真〕
上の写真。向かって左側の写真は、ノカンゾウです。7月~8月の、夏休みの時期に花を咲かせます。高原に咲くキスゲ(ユウスゲ)や八重咲きのヤブカンゾウ(下の写真の花です)とともに、夏休みの思い出の風景の中にひっそりと花を咲かせている、そういうことがめずらししくない花だと思います。

「カンゾウ」は、漢字で書くと「萱草」と書きます。「萱草」には、「わすれぐさ」という読み方があります。歴史の浅い当て字ではなく、万葉集の中に、「萱草」という漢字を「わすれぐさ」と読む例が数例あります。

「忘れ(ぐさ)わが(ひも)に付く香具山(かぐやま)()りにし里を忘れむがため」(万葉集、巻第三、大伴旅人(おおとものたびと)、336)
「忘れ(ぐさ)()が紐に付く時となく思ひわたれば()けりともなし」(万葉集、巻第十二、作者不明、3060)

どちらの和歌でも、原文(万葉仮名)に「萱草」とある漢字を「わすれぐさ」と読んでいます。

大伴旅人は、九州に置かれた役所、太宰府(だざいふ)の長官を務めた人物です。「忘れ草」の和歌は、“遠く故郷を離れた太宰府にいるいま、香具山を望む故郷の地を忘れようとして、衣のひもに、憂いを忘れさせてくれるという「萱草」(忘れ草)を付けていることだ”、というような内容です。
作者不明の「忘れ草」の和歌は、“いつも(あの人のことを)思い続けていて生きている気持ちもしない。そのため、悩みを忘れさせてくれるという「萱草」(忘れ草)を、衣のひもに付けていることだ”、といった内容の、恋の歌と考えられます。
(以上、万葉集にかかわる内容については、岩波書店『新 日本古典文学大系 萬葉集 一』、『新 日本古典文学大系 萬葉集 三』による。)

二つの和歌から、「萱草」には憂いや悩みを忘れさせるはたらきがあると考えられていたことがわかります。そのことが、「萱草」に「わすれぐさ」という読み方がある由来なのだろうと考えられます。

8月も後半になると、新学期や、お盆休み後の仕事に向けて、気持ちが重くなりがちと思います。心配事や悩みを忘れさせてくれる「萱草(わすれぐさ)」を身に付けたい気持ちになることも、あるのではないでしょうか。



一方、上の写真、向かって右側のものは、ワレモコウに、まだ赤くなる前のトンボが止まっている写真です。8月に入ると、猛暑の中にも、秋の気配が感じられるようになります(今年(平成25年)の立秋は、8月8日でした)。ワスレグサやユウスゲは、夏の季語ですが、ワレモコウは、秋の季語です。
ワレモコウは、旧仮名遣いのひらがなで表記すると「われもかう」であり、「われもかく」のウ音便と同じであり、「わたしもこのように」の意味と重なります。そのこともあって、古くから掛詞(かけことば)としても使わています。

(写真は、どれも、2014年8月23日に、山形市野草園で撮影したものです。)