雪が降ると、しばしば「幻想的」と言われます。雨についてはまず言われることがないのに、雪についてそう言われるのは、なぜなのでしょうか。
雪の「白さ」が関係しているのかもしれません。そして、「軽さ」(もちろん、地上に降り積もった雪の重さはたいへんなものですが)も関係があるかもしれません。空気の抵抗を受けてゆっくりと、空気の動きによって大きく左右されながら落ちてくる、雪の「軽さ」が、見る者に「幻想的」と感じさせる一因になっているのかもしれません。
「風情(ふぜい)」ということばがあります。「味わうに値するおもむき」といった意味で使われる言葉のようですが、雪の「風情」には「幻想性」が付属していると言っても間違いではないように思います。
深養父の「冬ながら」の歌のような、「雪」を「花」に見立てる発想は、すでに万葉集所収の雪の歌にもあるようです。こうした発想も、雪の「幻想性」に基づくものと言ってよいように思われます。しかし、雪の「幻想性」という点でさらに注目されるのは、定家の「駒とめて」の歌です。知られているように、この歌は、万葉集にある「苦しくも降りくる雨かみわの崎さのの渡りに家もあらなくに」の歌を本歌取りしたものです。本歌取りをするにあたって、定家は、本歌の「雨」を「雪」に変えました。そうすることによって「駒とめて袖うちはらふかげ」を、降りしきる雪の景色の中に、「幻想」として、みごとに浮かび上がらせています。雪景色が、「幻想」を(それも、言って見れば、3Dの映像として)浮かび上がらせる、一種のスクリーンの役割を果たしています。