ブログふう P2
2014年12月21日(日) 雨のち曇り
池田康(いけだやすし)さんが発行なさっている、詩の一枚誌『
虚の
筏』第10号に、第9号に引き続き、参加させていただきました。
次に、PDFデータを置きます。お読みいただければ、と思います。
私の好みは、神泉薫さんの詩「赤飯」。そもそも、「赤飯」をテーマとする詩がめずらしいのではないでしょうか。少なくとも私は、ほかに読んだ記憶がありません。「赤飯」に視点を当てた、その独自性(そこにはきっとみずみずしい感受性のはたらきがあると思います)がまずよいと思いました。
“赤飯からよくここまでイメージを広げることができたものだ”と、思います。そして、“イメージを練り上げて、一篇の詩作品として成立させることができたものだ”と。念のために言っておきますが、決して皮肉で言っているのではありません。今ではスーパーやコンビニに行けば簡単に手に入る赤飯ですが、本来は、この詩に表現されているような意味と重みをもつものなのだと、あらためて、「赤飯」について、思い直しました。
今号に掲載されている詩を読んで一つ思ったのは、「前知識」の有無によって、詩の理解は大きく異なってくるということです。小島きみ子さんの詩や、たなかあきみつさんの詩は、その詩の世界を読者が理解するには、言い換えれば、作者がことばにもたせた意味を読者が理解するには、多くの「前知識」が必要であると思いました。
池田さんの詩は、その点、どうなのでしょう。「第五の季節」をネットで検索すると、「第五の季節」と呼ばれるドイツのカーニバルの紹介が載っています。「塩の雨」を検索すると、あるカードゲームのカードの紹介が出てきます。それらのことを、この詩におけることばは、反映しているのか、いないのか。私は、反映していない、少なくとも反映させて読む必要はないと考えるのですが、どうなのでしょうか。むしろ、地質時代の区分による「新生代第四紀」、現在が位置し、人類が繁栄している、その「第四紀」の次の時代という意味を「第五の季節」にもたせているように思われますが、どうなのでしょう。あるいは、私が思い浮かべることのできない、何らかの「前知識」に依拠しているのかもしれません。
読者にどういう「前知識」をどの程度要求するか、必ずしも作者がいちいち考えて書くわけではなく、また考えて書かなければならないわけでもないと考えますが、結果的に読者を限定することにつながることは、事実として否めないのではないでしょうか。
私は、「エノコログサのころ」という詩を載せています。「エノコログサ」を知らないのであれば、基本的におもしろさを感じられない詩だと思います。「ネコジャラシ」と呼ばれることのほうが一般的であるわけですが、私の中では「エノコログサ」です。
2015年1月31日(土) 晴れ時々曇りのち雪
昨日、たいへんうれしいことがありました。「神戸新聞社会部」様から「細見和之さんからです」と、1月27日(火)の「神戸新聞」が送られてきました。開いてみると、細見さんが「詩集」評で、『帽子の時間』を取り上げてくださっていました。
内容は、私にとってたいへんうれしいものです。ここで、ご紹介させていただきます。
2015年2月7日(土) 晴れ時々曇り
トップページの「特設コーナー」に、『Photo詩集 風景に入る/風景を出る』を置きます。写真と詩を一緒に楽しんでいただければ、幸いです。
写真は、「虚像の公園1 ―遠近法―」~「虚像の公園4 ―ゲート―」については、昨年の暮れ、12月27日に、山形県総合運動公園で撮影したものです。晴れた日に樹木の写真を撮りたくて行きました。しかし、撮影した写真を見ると、どうももの足りない。自分が何を撮りたかったのかわからない写真になっていると思いました(私が撮りたかったのは、樹木の「形」なのですが)。そこで、「Photoshop
Elements」を使い、加工してみることにしました。その結果、「フィルター」機能の、「フィルターギャラリー」→「アーティスティック」→「ネオン光彩」を使って加工したのが、詩集で使った写真です。私が本来撮りたかったものがきちんと表現されているとは言えませんが、「予期しないおもしろさ」があって、もとの写真よりずっと魅力的に感じられました。
はじめは、『ミニフォト絵本 スズランスイセン』のように、「物語」にしようと思いました。しかし、構想はふくらまず、表現でどれほど苦労するかを考え、「物語」にするには写真が足りない…、ということで、断念。とはいえ、加工した写真には、私にとっては捨てがたい魅力がある…、ということで、詩を付けてみることにしました。
詩を書き始めてみると、これが、なかなかおもしろい。「写真がなかったとしたら得られなかったであろう発想」が得られて、大げさなもの言いになりますが、「写真から発想を得て詩を書く」という書き方には「詩を書く方法として未開拓の可能性がある」のではないかと思いました。昨年3月に出版された、高階杞一さんの詩集『千鶴さんの脚』(四元康祐さんの詩に、高階さんが詩を付けている)は、そういう可能性を提示している詩集だったのだと、いまさらながら、『千鶴さんの脚』のもつ「意義」に気がつきました。
“写真をもとに詩を書くという詩作の方法”として、「フォトポエム」(『千鶴さんの脚』の「あとがき」より)は、これまでさまざまな形で行われてきたのだろうと思います。ただ、私の視野の狭さを勘案しても、『千鶴さんの脚』ほど、その可能性を実感させてくれる詩集が、少なくとも日本語で書かれた詩集の中にあったのかどうか、疑問に思われます。言うまでもないことですが、方法が新しくとも、書かれた詩に魅力がなければ、詩集としての評価は限定的なものになり、方法のもつ可能性を“実感させてくれる”ということにはならないでしょう。その点、『千鶴さんの脚』は、詩がたいへん魅力的で、見ごたえとともに読みごたえがあります。
写真と詩を一緒に示すメディアとして、「Web」は、たいへん便利です。簡単に、「読み手のもとに制作物を届ける」ことができます。「紙」で届けるのは、たいへんです。
長く書きましたが、とにかく、「見て、読んで、楽しんで(=味わって)」いただくことができたならば、「自己満足」以上の意味があったということであり、私にとってたいへんうれしいことです。
なお、「虚像の公園0 ―花のあと―」は、11月30日に、山形市野草園で撮影したものです。もとの写真を、次に示しておきます。
2015年3月17日(火) 薄曇り
この度、拙詩集『帽子の時間』が、第14回山形県詩人会賞を受賞いたしました。14日の県詩人会の理事会で決定したとのこと、事務局から連絡がありました。たいへんうれしく思っております。
遠藤敦子さんの詩集『
禳禱』と並んでの受賞です。遠藤さんの詩集については、当HPに
感想を載せてあります。ご一読いただければ、と思います。
詩人の中には、「評価など気にしない」という方もいらっしゃると思います。一方、私は、自分の詩がどのように評価されるのか、たいへん気になります。「ことばの価値は、書き手(話し手)の側で決定されるものではなく、結局は、読み手(聞き手)の側で決定されるものだ」と思うからです。これは、ことばに限らず、音楽や美術についても、すなわち、表現されることのすべてについて、言えることではないかと思っています。
とはいえ、私の詩に魅力を感じてくださる方は決して多くないのだということも、このごろ強く感じています。
たとえば、次の詩は、私自身は好きなのですが、みなさんはいかがでしょうか。
選考にかかわられた皆様には、高く評価してくださったことに対し、深く感謝申し上げます。
次に、いただいた「選考経過」を、PDFデータで掲載させていただきます。