旧トップページ・〈2016年2月15日~2018年7月30日〉



   
  
 

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 輪
       ―ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」を見て  


 輪回しの少女が                 
 道を進んで
 建物のうしろに
 姿を
 長い
 影といっしょに
 消しても

 世界は
 いろいろな輪で
 いっぱいです

 道の上に残された
 シロツメクサの
 花輪

 音がして
 あるいは
 音もなく
 池に広がる
 波紋

 勝者の頭上に
 捧げられた
 冠






 かごめかごめ
 の
 輪が回っている                          

 はずされて
 テーブルの上に
 置かれた
 指輪

 灯のともった
 広場で
 輪をなして
 踊りが始まった

 動物によって
 くぐられた
 火の輪

 塔の上の時計を
 囲んでいる
 輪

 一日が
 輪のように
 感じられますか






 一年は
 どうですか

 季節が
 順におとずれる
 のは

 いつから
 わたしたちは憂愁を
 感じるようになったのでしょうか
 何事か
 変わることのない
 夕方においても

 もしも
 わたしたちが時間を
 輪の中におさめはじめることがなかったとしたら―

 それでも
 わたしたちは憂愁を感じなければならなかったでしょうか       

 まるで
 通りの向こうで待つ
 避けがたい
 影のように
 心に落ちる





 暗い予感によって

 通りは
 いつも
 こちらからあちらへと
 伸びていくし
 光は
 いつも
 あちらからこちらへと
 やってくる―
 はずのものであるのに

 輪回しの少女が
 決して一義には定まることのない
 暗喩であっても
 わたしたちは
 輪回しの少女の姿を
 たしかに見かけることがある
 遮断機の下りた踏切の向こう側や
 ビルとビルとの間のせまい通路の向こう
 人々が思い思いに時間をすごしている公園
 信号が変わって大勢の人が移動しはじめたスクランブル交差点   
 今日もまた いつのまにか
 夕方になってしまった
 一つ向こうの橋の上






 いつかどこかで少しだけずれてしまったものだから
 出合うことなく
 すれ違うばかりではあるけれども

 もしも
 輪回しの輪と棒とを持って
 少女が立ち止まり
 沈みかけた夕日を見ていることがあったとしたら―          

 そのときには
 はたして



                        (久野雅幸)


〔トップページの写真について〕
 元旦に合わせて更新した、前のトップページに、11月下旬の京都で目にした「センリョウ」と「マンリョウ」の写真を載せました。
 そのあと、1月2日のことです。庭で、「ジュウリョウ」を見つけました。上の写真は、そのときに撮ったものです。
「ジュウリョウ」は、「ヤブコウジ」のことで、「センリョウ」や「マンリョウ」と同様に、正月をはさむ寒い時期に赤い実を付けます。大きくはならず、実の付き方が、写真のようにわずかなので、「センリョウ」や「マンリョウ」に対して「ジュウリョウ」なのだろう、と思います。
「ジュウリョウ」が生えていたのは、実は、ツツジの株の下のまったく目立たないところです。次の写真から、どのようなところか、想像することができるかと思います。

  

 「なぜ、こんな場所に生えているのだろう。」と不思議に思われましたが、「ヤブコウジ」は日陰を好む植物であり、しかも、ツツジの株の下というのは、考えてみると、雪が積もっても、ツツジのおかげで雪の重さを直接に受けずにすむ、その点で雪をしのぎやすい場所なのだろう、と考えられます。
 次の写真は、二つとも、2月6日に撮影したものですが、一時期雪が深く積もったあとにも、このように「ヤブコウジ」が実を付けていました。

   

 おそらく、去年も同じ場所で実を付けていたのだろうと思われるのですが、まったく覚えがありません。目に入っていたとしても、気にとめなかった、意識しなかったと思われます。
 私が「ジュウリョウ(ヤブコウジ)」という植物の存在を知ったのは、前回のトップページ更新に際し、「センリョウ」と「マンリョウ」のことを調べたときです。
 「知る」ことが「見つける」ことにつながったのだ、と思います。