久野雅幸のページ
詩を書くということ


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詩誌を読んで〈2014〉 その3

『E 詩』第25号(2014年9月1日発行)
  『E 詩』第25号を読んだ。詩は、安達和明「指先」「遺書」、阿部栄子「ほたるの里」、いとう柚子「器」「梅雨冷え」、細矢利三郎「水仙からめ」、福岡俊一「桜」「フォスター讃」、芝春也「土鳩」。エッセイは、いとう柚子「喪の場で朗読された詩」、芝春也「ぽえ爺随考録① 詩の原理を求めて」。「アフォリズム」として、いであつし「百馬鹿の柵 ①」が載っている。

  私が最も惹かれたのは、安達和明の2篇の詩。次に、紹介したい。



    指 先
                                                                     
  月の光に眠る赤ん坊の
  柔らかく 勢いよく伸びる
  植物の成長点の様な
  白い指先
  少し開いた指がピクリと動き
  闇の隙間に根を伸ばす




  遺 書

  美しい遺書のような本棚の前で
  君の微笑みを想う
  本は海
  本は森
  本は路地裏
  本は過去と未来を彷徨う魔法
  そう言って
  君は一冊の本を手に取った
  そしてその本棚の隙間から
  君は旅立った

  本棚の裏から吹いてくる柔らかな風は       
  君の口ぐせ
  君からのサイン

  「すべて世は事もなし」
  「ケセラセラ」ってね

  「指先」は、「赤ん坊」の「白い指先」を「植物の成長点」とみるまなざしが印象的。「月の光に」から「白い指先」まで、一文でつながる伸びやかな文体それ自体
が、「柔らかく 勢いよく伸びる」成長の実感を感じさせる。「闇の隙間に根を伸ばす」は、「闇」におおわれやすい世界にあって、新しい命の成長こそが希望であるという、世界観をも思わせる表現。「闇の隙間」は、“月の光に照らされているようすを表す比喩でもある”と読んだが、適切だろうか。
  「遺書」は、本が好きな一人の女性が別の世界に行ってしまった、そのかなしみのこもった詩。本棚を「美しい遺書」とする、一行目の比喩に、まず惹かれる。「本は海/本は森/本は路地裏/本は過去と未来を彷徨う魔法」という「君」のことばが、“私たちにとって本とはどういうものか”という問いに対する答えを、ありきたりでない深いレベルで、みごとに捉え、魅力的に表現している。「そう言って/君は一冊の本を手に取った/そしてその本棚の隙間から/君は旅立った」は、本が好きな女性が別の世界に行ってしまったことを、単に“述べる・語る・伝える”だけでなく、“イメージを通して、実感させる”表現になっている。こういう表現を、“詩的表現”と言うのだろうと、私は考える。
  第二連。「風」は、第一連で表現された、「君」が「一冊の本を手に取った」その「本棚の隙間」から吹いてくるのだろう。そのことによって、「風」は自然に「君」を思い出させることになる。
  第三連。「すべて世は事もなし」「ケセラセラ」のことばが、“個人的な思い込み“や“個人の信条”とは異なるレベルで、説得力をもって、それこそ心に風が吹き込むように、読む者に受け入れられる。その理由は、ここでは、それらのことばが“「本」のもつ価値に裏付けられ”ており、“「本」の側からこの世の中の出来事を見れば”という前提をもっているからだろう、と思う。

  芝春也の詩「土鳩」は、“「生きる」ことを励ます力をもった”詩だ(芝の詩については、前にも同様の表現を使った。参照:詩誌を読んで〈2013〉、詩「雪を掘る」)。
 「ドバト」は、「レースから離脱」し(=競争から離脱し、期待された役割を果たしきれずに)、「もう使いものにならない」と判断されたもの。しかし、一方では、生きる環境の厳しさと引き替えるようにして、自然の中で自由に生き、飛翔することを得たもの。詩を書いている人間で、そうした意味での「ドバト」の自覚と無縁な人がどれだけいるだろうか。
  終わりの二つの連が、「ドバト」に対する共感を、さりげなく表していると、私は読んだ。



    土 鳩
                                                               
  初レースだった
  福島から放鳩したが
  願い空しく
  帰巣しなかった

  そいつは
  レースから離脱し
  ドバトになったのだ
  ドバトになれば
  もう使いものにならない

  ドバト
  ドバト
  と吐き捨てるように
  何度も Kは
  繰り返した

  古希を祝う
  温泉宿での同級会
  たまたま相部屋になったK
  中学の頃
  鳩を飼っていたという
  違う部落だったし
  まさかレース鳩など飼育していたとは      
  思いも寄らなかった







  相変わらず 口下手で
  ひょろんとした風体
  おれも おまえも
  ドバトだ
  といわんばかりに
  鳩談義をひとくさり

  翌朝早く
  温泉につかっていると
  外の樹林で
  グルッポ
  グルッポ

  ドバトが鳴いた                
  
  
  

  

  いとう柚子のエッセイ「喪の場で朗読された詩」は、「88歳で亡くなられたAさん」という「日本画家」の女性の葬儀で、喪主である「弟のK氏」が、茨木のり子の詩「私が一番きれいだったとき」を朗読したエピソードを紹介している。「〈そんなばかなことってあるものか〉(第5連)という1行には、何万人ものAさんの悲しみや怒りや無念がひそんでいて、あるときは叫びとなって、またあるときは呟きや呻きとなって、聞こえてきそうである」。印象に残るエピソードである。“不特定多数のひとによって共有されることば”という性質は、優れた詩のことばに共通するものではないだろうか、と思う。
  芝のエッセイ「ぽえ爺随考録① 詩の原理を求めて」も興味深く読んだ。芝は、「詩の本質」としての「ポエジイ」について、述べている。「詩は、感情であったり思考であったり、認識であったり思想であったりもする。しかし、詩のエッセンスあるいは詩の本質(ポエジイ)というのは、それらのいずれでもない。それらの中に生じる電流のようなものだ。」「詩は言葉の電流体である。ポエジイとはその詩的電流のことだ。詩的電流は読む人の内面を刺激し、活性化して、生命を励ますはたらきをする。それが詩の効用というものだろう」。なるほどと思い、「ポエジイ」についてそういう捉え方をしている人だから、芝の詩には「ポエジイ」があるのだろう、と思った。

 (以上、敬称や敬語表現を省略させていただきました。)


『個人通信 萌』第41号(2014.夏の号)、『きょうは詩人』第27号(2014年4月19日発行)
  『個人通信 萌』第41号では、伊藤啓子の詩「美術館まで」「ことり屋界隈」を読むことができる。
  『きょうは詩人』第27号では、詩は、苅田日出美「ゆりかもめ もめるかもめ」「エスカルゴロゴロ」、長嶋南子「猫1 大風が吹き荒れた夜」「猫2 ことのてん末」、鈴木芳子「嘘のように」、伊藤啓子「インカのめざめ」、福間明子「ノンフィニート」「会話」、吉井淑「いもうと」「時間隧道」、万亀佳子「仏師」、小柳玲子「ロンゴ坂下駅」、古谷鏡子「かげ 踏んじゃった」を、エッセイは、万亀佳子「広部英一に寄せて」を、読むことができる。

  次に、伊藤啓子の詩「美術館まで」を紹介したい。



    美術館まで
                                                               
  日が高くなってから出てきたのに
  ここだけは
  うっそうとした木々が影を落として
  ひんやりした空気が漂っている

  ちいさな美術館がこの奥にある
  夭折した写真家の作品展があると聞いてやってきた
  森の入り口で
  顔のそっくりな女の子二人が遊んでいる
  こんにちはと声をかけたら
  後ろからついてきた
  歩きながらふたりの顔を比べてみた
  みごとに同じ顔をしている
  あごのほくろもふたつに結んだおさげの髪の揺れ方も   

  話しかけても何も答えてくれないが
  無愛想なのではない
  人見知りしているのでもない
  それどころか人懐こそうである
  声をたてなくとも
  ふふ、うふふ、
  真綿を含んだような不思議な笑い方をする
  お揃いのいでたちが古めかしくて
  どこかなつかしい
  長めのスカートにベスト
  白いハイソックス
  ふたご?と訊くとまた
  うふふ、と顔を見合わせている






  ふたご?
  ううん、きょうだい
  いつだったかそんな会話をしたことがある        
  木洩れる日が風に揺れて
  ちかちか眩暈がする
  あんまり思い出さない方がいいと
  うっすら悟っている

  大きな木の下で
  白い犬を連れた女が空を見あげている
  何年か前に
  どこかの橋の上で会ったことがある
  その時は違う色の犬を三匹も連れて
  水底をじっと覗いていた

  あの時の犬はどうしたのと訊くと
  空を見あげたままで
  みんな死んでしまったのと
  うたうように答える
  おお、いやだ
  そんなに次々と死んでしまうものなの
  こっちこっちと女の子たちに手招きされて
  あわてて歩き出した
  振り返ると
  犬を連れた女はまだ空を見あげている

  歩くたびに森は深くなり





  なかなか建物へは辿りつけない
  美術館はまだ?
  返事の代わりに
  ふふ、うふふ、はじめて声を聴いたが
  女の子たちは森の奥にころがるように駆けてしまい    
  もう姿を見ることがなかった

  「森」にモチーフ(の一つ)を得た伊藤の詩は、これまでにもあった。『きょうは詩人』第25号に載る詩「捨て子」、『きょうは詩人』第26号に載る詩「秋の幻燈」が、それである(参照:「詩誌を読んで〈2014〉」)。三つの詩は、どれも魅力である。どれも、「森の深さ・神秘性・異界性」を捉えてみごとに表現している。
  この「美術館まで」は、「森の深さ・神秘性・異界性」それ自体を主題としている点で、詩「捨て子」と共通している、と言ってよいのではないだろうか。ただし、主題は同じでも、「表現」はまったく異なる。
  第一連。以前にも伊藤の詩について、同様のことを述べたが、伊藤の詩のことばは「(散文的な)説明」にならない(参照:「詩誌を読んで〈2013〉」)。この第一連もそうである。「実感を伝える、イメージ」として成り立っている。
  第二連。「顔のそっくりな女の子二人」が登場する。詩を最後まで読めばはっきりすることだが、「女の子二人」は、森の精霊とも、何らかの理由で森と一つになった霊的な存在ともとれる、いずれにせよ、森と一つになって森の異界性を表す存在である。
  この「女の子二人」に、“現実性(=「詩的リアリティ」とでも言うべきもの。それは、はじめから「虚構」として受け入れられる小説におけるリアリティとは異なる)”をもたせることができるかどうかが、この詩の、詩としての成立の可否に決定的にかかわる鍵だったと考える。それができれば、この詩は、「森の深さ・神秘性・異界性」を表現した詩として成立するし、できなければ、「物語」ではあっても「詩」とは言えないものになっただろう。それができている、と私は考える。
  第三連と第四連の表現が、「女の子二人」に、“現実性”をもたせている。特に、第四連(「ふたご?/ううん、きょうだい/…」の連)が、“現実性”をもたせるという点で、実に効果的だ。
  第五連と第六連は、「白い犬を連れた女」に関するエピソードであり、そのエピソードは、「女の子二人」とともに、森の異界性を―このエピソードでは、まるで、森が“異なる時間(それも、死と深くかかわっている時間)が入りこんでくる場所”であるかのように―、表現している。それと同時に、この二つの連は、「女の子二人」の“現実性”を、いわば“補強する”役割を果たしている、と私は考える。
  最終連は、「建物」に辿りつくことができるのかどうか、不安になるような、「森の深さ」を表現して、終わっている。

  さて、では、上で述べた「詩的リアリティ」とは、どういうものだろうか。
  理論的に述べることは、たいへん難儀なことである(すでに、誰かがどこかで述べているかもしれないけれども)。しかし、その本質をみごとに表現したことばが、いま、手もとにある。谷川俊太郎の詩集『ミライノコドモ』(岩波書店、2013年6月5日発行)の帯に記された、おそらくは谷川自身のことば。

   「物語には終わりがあるが詩に終わりはない」(詩集『ミライノコドモ』の帯より)

  「物語には終わりがある」。なるほど、と思う。「物語」は、一つの自己完結した虚構世界を作りあげる。「物語」を夢中になって読んでいるとき、読者は、その虚構世界の中に入り込んでいる。そして、「物語」を読み終えたときには、その世界がどんなに魅力的なものであっても、そこから出て、自分にとっての「現実の世界」にもどることになる。もちろん、「物語」を読んだ結果として、読み終えたあとに、「現実の世界」を生きる上での世界観や人生観、価値観、あるいは、“世界の感触”とでも言うべきものが、変わっているということはあるだろう。しかし、「物語」の世界は、あくまで自己完結した虚構の世界であり、「現実の世界」とは厳密に区別される。
  一方、詩のことばは、「現実の世界」に入り込む。たしかに、詩においても、一つの世界が表現されるが、その世界は、“現実の世界の中に見出すことができる“”ものだ。あるいは、「現実の世界」を生きていくとき、自分の“現実の体験の中で文脈を得る”ことができることばだ。三好達治の詩でも、中原中也の詩でも、吉野弘の詩でも、茨木のり子の詩でも、谷川俊太郎の詩でも、そうである。「詩に終わりはない」。なるほど、と思う。
  その詩が「詩的リアリティ」をもっているとき、そのことばに「終わりはない」。
  伊藤の詩も、「現実の世界」における「森の深さ・神秘性・異界性」を表現していて、「終わりはない」ものになっている。

 (以上、敬称や敬語表現を省略させていただきました。)



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